退屈から学ぶこと

哲学
British Bulldog Dressed As Businessman Looking Sad At Desk

 退屈な時間について学ぶことができる「暇と退屈の倫理学 國分功一郎著」の内容を紹介していきたい。今回は退屈の種類と退屈への対処法本の内容を参考に考えていきたい。

 著書の中ではハイデガーの提唱した3つの退屈をもとに退屈を解説してくれている。

退屈の第一形式

 退屈の第一形式は駅で待ちぼうけている状態の退屈であると紹介されている。電車は自分の行動で早くくるということはないし、手持ち無沙汰で時間が過ぎるのも遅い。外部から取り残されて時間が過ぎるのも遅いという状態。

抽象化

 自分でコントロール不可能な状態かつ、自分の欲求に答えてくれるものがないため時間が過ぎるのも遅い状態。

日常の生活に追われていると、こういった自分でコントロールできない時間に苛立ちを覚えたり、手持ち無沙汰な時間を許せない。退屈を楽しむ余裕がない。自分の好きなことはあっという間に時間が過ぎるが、望んいない状態は時間が過ぎるのが遅いというのは誰もが経験したことがあるはずだ。

具体化

 会社での会議でも自分では進行をコントロールできないし、自分に発言権などがないと時間が過ぎるのも遅いはずだ。受動的な時間はこういった状態に陥りやすい気がする。

日常生活に活かすには

 暇の第一形式は外部に自分が取り残されている状態であるといえる。能動的な姿勢に変わるとそういったイライラが募る退屈な時間を減らせるのではないかと思う。興味のない会話や会議に苛立ちを覚えるのなら、そこに自分事のものを見つければいい。電車の遅延で待ちぼうけを食らっているなら、周りの人を観察するゲームをしてみたり、周りの風景から四季を感じてみたりなど自分と外部の間に繋がりを見つけてあげればよいのでなないかと思う。

退屈の第二形式

 退屈の第二形式はパーティーなどに参加して、楽しい時間を過ごしているのにもかかわらず、退屈を感じてしまうという事象である。著書の中ではパーティーに参加するということ自体が一種の気晴らしで気晴らしの中に存在している自分に退屈しているという状態。正直意味は完全には理解できないが、気晴らしの中にいるんだから退屈からは結局逃れられないということだろうか。しかし、この退屈の第二形式は自分で時間をコントロールして能動的に味わっているものであるため、第一形式と比べて自分に余裕があり、学びの余白がある状態ともいえる。

抽象化

 自分で選択した決断なら、コントロール感がうまれてプラスに働く。

具体化

 休日の時間をつかって、新しいコミュニティーに参加して会話を楽しんでみる。これも確かに気晴らしだが、成長のために使っている時間ともいえるため第二形式に当てはまる。資格勉強や読書なども一種の気晴らしといえるが、自分で時間を生み出して成長に仕えているため第二形式に当てはめることができる。

自分達の生活に活かすには

 自分の生活に当てはめるなら、誰かとあったり、イベントに参加したりするときはそこから何か学べるかを考えるだけで、自分でコントロールしている気晴らしになるため、第二形式の退屈として消化することができるはずだ。

 具体的な例をあげると最近登山を楽しんだ。合計で4時間の時間をつかったし、これも一種の気晴らしだと思う。しかし、自分で時間を作って体力向上やストレス軽減の目的をもっていたためかなり有意義な時間になったと思う。今自分が味わっている時間は能動的なものかを考えるだけでもかなり良いのではないかと感じた。

退屈の第三形式

 退屈の第三形式はただなんとなく退屈を感じることだと述べられている。日常生活を営んでいるときに、ふと退屈を感じてしまう。この退屈は心理的にはあまりよろしくないもので、この第三形式の退屈から逃れるために、日々の必要以上に忙しくしたり、気晴らしを求めているらしい。確かに、この何となく退屈という感情は耐え難い。自分が責められているような感情になる。

 抽象化

無防備な時に、現実を突きつけられるとダメージがかなりでかい。

具体化

 何もしていない時間にふと、退屈を感じて今なにもしていないという現実を突きつけられると、自己嫌悪に陥る。なんとなく退屈を突きつけられると、抵抗しようがないし苦しくなる。休日に何もしていないときに退屈を感じるとかなり気分が下がるという経験は誰しもあると思う。

自分の生活に活かすには

 何もしない時間は事前に決めておいて、戦略的に空白の時間を取り入れるとなんとなく退屈という感覚に襲われないと思う。他にも勉強して集中力が途切れてくると何のためにこの勉強してんだ?と退屈に襲われるときがある。自分のゴールや目標を考え直すことの何となく退屈という状況に対応できるのではないかと思う。

人間と動物の違いからの考察

 著書の中で紹介されている考えで特に好きだったのが、「環世界」である。「環世界」はその動物が感じることのできる世界を意味していて、人間は五感を駆使しているが、他の動物は視覚は精度が低いが嗅覚や聴覚が優れていることが多い。一つの事象に対して感じる世界が違うということだ。人間は比較的いろなんな世界を感じることができる動物ではあるが、それぞれの価値観から感じる世界が違う。しかし、人間はいろんな環世界を行き来できる。その人の感じ方や世界の説明と受けると違う世界を見ることができる。この環世界は退屈の第二形式に応用することだできる。いろんな環世界を感じることができるからこそ、自分で時間の余白を作って、いろんな世界を作ることが重要なんだと感じた。

まとめ

 自分の感じる退屈にも種類があり、退屈の質を上げていくには、自分で時間をコントロールしている感覚が大事なんだと思う。環世界という概念は非常に勉強になった。たくさんの環世界を行き来できる人間だからこそ、退屈を実りのあるものに変えてきたい。

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