退屈な時間について考える

日常

 自分の時間の使い方について悩んでいるときに出会った良本について紹介したい。「暇と退屈の倫理学 國分功一郎著」である。退屈とは何か歴史や経済を交えて解説してくれている。また、歴代の哲学者が提唱した考えを解説しながら、最終的に著者の退屈に対する考えも展開してくれている。退屈への向き合い方を変えてくれる1冊であった。

退屈に対する考えを学んだことを自分の実生活と絡めて解説していきたい。

そもそも退屈が生まれた理由

 今の人間はほとんどの人が定住して、家で暮らしを営んでいる。遊牧民のような転々と家を移動させることは少ない。しかし、文化が生まれる前の人間は決まった場所にとどまらずその日の食糧はその日の狩りで賄うといった生活を行い、食料を求めて転々と暮らす場所を変えていた。氷河期を抜けて温暖な気候に変わると植物が生い茂り見渡しの良い平地はみるみるうちに森林へと変わっていき、平地で狩りをしていた時代は終わった。その日その日で目の前の狩りに集中していく時代が終わり、余った集中力や生命力を文化の発展に注いでいった。余った退屈な時間が次の発展へとつながったということだ。

抽象化

  人間は自分の生活に全集中するよりも、幾分かの余力が自分の発展につながる。

 人間だけじゃなく、機械もスペック以上の処理をさせようとするとオーバーヒートするし、余力を残して運用させるといつかはアップデートが入り能力が向上していく。

具体例

社会人1年目と今(4年目)では、仕事量は今の方が多い。しかもプライベートでも挑戦できてることが今の方が多い。一年目は仕事に全集中して、キャパの空きがなかった。今の方が残業時間も少なくなっているし、読書量も増えている。一定量の余裕が生まれて退屈な時間を生みだせたことにより他のことに時間を使えているということだ。

今の自分達に活かすには?

 退屈な時間があったからこそ、自分達の生活を豊かにする余力が生まれる。今自分は独身で時間に余裕がある。兄弟はすでに家庭をもっており、子育てに追われている。余裕がないという状態だ。この状態から少しでも退屈な時間を作り出せるように考えてみたい。夫婦で協力して片方が1時間でもいいから空いている時間を休日に作ってあげるだけでも、気分が良くなって生産性があがるかもしれない。日々の家事や暮らしで時短できるところを話し合ったり、家電に頼れるところを探してみる。また、完全主義を手放して、ある程度の合格点を夫婦で決めるのもいいかもしれない。

 今後の自分(独身)で空いてる時間を生み出すとしたら、朝の時間と休憩時間も利用できたらと思う。

退屈は金持ちの証明?

 昔は自分の生活を維持するには朝から晩まで働いて、余った時間など全くないといった労働環境が当たり前だった。今の日本は残業に対する規制もあるし、比較的暇を作りやすい労働環境だ。しかし昔から働かずとも退屈な時間があった金持ちはその退屈な時間を楽しむ術をたくさん知っているし、楽しむための財力がある。中途半端に時間だけあると、楽しむための術も知らないし、そこに使う財力もない。退屈という時間は贅沢品であったため、急に退屈な時間を多くの人が持つことが出来るようになった今、なかなかうまく利用することができない。

抽象化

 使い方がわからないものを与えられても上手く扱えないように、そもそも退屈な時間という贅沢なものの使いかたを知らない人が多い。

 退屈な時間を使えるようになった今、その使いからを今一度考えてみる必要がある。

具体化

 休日にやることがないため、何となく仕事場に来る人や特にやることがないから夜遅くまで残業する人がいる。明確な目標があれがいいが、退屈な時間からただ逃れるため、退屈な時間の上手い使いかたがわからないため仕事をするというのはいつか限界が来てしまうと思う。

今後の生活に活かすには

 退屈な時間が生まれるのはどういう状況が多いか。それはずばり、休日だ。一日にやることをスケジューリングするとぎちぎちに詰めてしまう人がいると思うが、あえて余裕を持たせてスケジュールをたてると余裕が生まれて新しいことにチャレンジできる幅が生まれる。

また、そもそも休日の過ごし方に不満がある人は時間の贅沢な使い方を認識できていないかもしれないと立ち止まって見ることをお勧めする。ただ何となく時間を浪費している人は過去の自分が好きだったものや何も縛りがないとしたら何をしてみたいか一度自分の価値観や好きなものを深堀していみるのもいいかもしれない。

 

退屈の原理

 著書のなかで退屈に対する哲学者の私見が紹介されている。その中でも刺さったのはパスカルの見解だ。人間は部屋でじっとしていることができない。人間の行動原理はただの気晴らしだというものだ。狩りに熱中するのは獲物がどうしても欲しいからではなく、狩りに出かけているその時間が楽しく気晴らしになるからだ。人間は退屈を凌ぐために理由をつけて行動を起こしているに過ぎない。確かにその通りだと思うが、その熱中による気晴らしで世界は発展してきたともいえる。人間の行動原理は何か崇高なものに基づいているわけではないということだ。

抽象化

 行動によって得られる対象と本当に求めている報酬は必ず一致するとは限らない。

具体化

 例えば彼女と楽しくお喋りしながら、ランチをしたとする。得られるものは美味しい食事であるが、ここで私は本当に求めているものは美味し食事ではなく、彼女とのお喋りで得られる安心感や癒される感覚である。実際に手にするものの裏側に潜む本当に得られるものに注目するといいかもしれない。

今後の自分達に活かすには

 退屈な時にあれをしようこれをしようと思いつくことがあると思うが、一度踏みとどまることも必要だと思う。自分がやりたいことを想像した時隠れた欲求を考えることが必要だ。何となく漠然とやりたいことを思いうかべたときただの時間潰しまたは、現実からの逃避になっていることだあるはずだ。かならずしもその行動を否定する必要はないが、人間は退屈を自然と回避しようとすることを念頭においていけば、自分の行動を顧みることだ出来る。

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